幼稚園を選ぶときにどのようなことを重視されるでしょうか?
私は今まで光明幼稚園は「当園はあそびを重視した昔ながらの幼稚園です」と、園の紹介をしてきました。しかし、そのことが、昔のままを踏襲するだけで漫然と保育をしているという解釈をされてしまう可能性があるということに気が付きました。少し光明の保育についてお話ししようと思います。
当園が「あそびを重視した昔ながらの幼稚園」であることに間違いはありません。ただ、幼児期の子どもたちのために、何が必要か考えたときに、結局は「あそび」であるということに帰着するからなのです。ではなぜ「あそび」なのか?
文部科学省は初等中等教育における教育課程において、主体的・協働的に学ぶ学習(アクティブラーニング)ということを重要視しています。小学校、中学校の現場では「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろんのこと,「どのように学ぶか」という,学びの質や深まりを重視することが必要であるとして、アクティブラーニングを取り入れた指導要領をもとに、新しい教育の在り方に取り組んでいます。では、同じ文部科学省管轄の学校の一つである幼稚園はどうでしょうか?
幼児期の子どもたちは、そもそもアクティブラーニングしかしないといっていいほど、毎日アクティブにラーニングしています。教師から知識の伝達を受けることで学ぶという、講義形式のような学びの形態ではなく、子どもたちがお友達と相談しながら一緒にあそびを作っていくこと。実はこれこそが主体的・協働的な学びの形なのです。そして、ここでいう学びとは、英語や文字、数字などを覚えることではなく、自分と他人の存在を知ることや、他人と自分の関係性、社会という集団の中でのコミュニケーションの仕方を学ぶ上で、最適なシチュエーションが、超主体的行動である、「あそび」にほかありません。要するに、幼稚園では昔から主体的・協働的に学んできていたのです。昔から幼稚園はアクティブラーニングの場であったのです。
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』というロバート・フルガムの著書があります。ここで少し紹介させていただきます。
人間、どう生きるか、どのようにふるまい、
どんな気持ちで日々を送ればいいか、
本当に知っていなくてはならないことを、
わたしは全部残らず幼稚園で教わった。
人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、
日曜学校の砂場に埋まっていたのである。
わたしはそこで何を学んだろうか。
・何でもみんなで分け合うこと
・ずるをしないこと
・人をぶたないこと
・使ったものはかならずもとのところに戻すこと
・ちらかしたら、自分で後片付けをすること
・人のものに手をださないこと
・誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと
・食事の前には手を洗うこと
・トイレにいったらちゃんと水をながすこと
・焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい
・釣り合いのとれた生活をすること
毎日少し勉強し、少し考え、
少し絵を描き、歌い、踊り、
遊び、そして少し働くこと
・毎日少し昼寝をすること
・おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、
はなればなれにならないようにすること
・不思議だなと思う気持ちを大切にすること
ロバート・フルガム著『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』より
これは、アメリカの日曜学校(幼稚園)であって、当園では焼きたてのクッキーも冷たいミルクもありません。そのかわり、お母さんの心のこもった世界で一つの自分のためだけの「お弁当」を作っていただいているのですが・・・。違うのはそのくらいで、ほとんどが我が園の園庭にも転がっています。そして、それは本来大人になってからも大切なものであるという意味でも変わらないのではないでしょうか?そしてこれらは「幼稚園で勉強した」のではなく、「砂場に埋まっていた」のです。人生で本当に必要なものは、知識の伝達により学ぶものではなく、遊びながら学んでいったということです。そして、それは人と人とが付き合うときに大切なことであると。
社会に出たときには、学びの連続です。知識や技術も常に学びながら生きていかなければなりません。会社勤めばかりではありません。どんな仕事であってもそれはついて回ります。家事にしても子育てにしても同じですよね。さらに知識や技術ばかりでなく、コミュニケーション能力も問われてきます。当園で新しく教員採用をするときの最重視項目はコミュニケーション能力です。どれだけ共に考え行動できるか?ということのほうが、知識や経験、学歴などよりも実際の現場では有効に思います。それは私ばかりでなく、他園の園長先生に伺ってもコミュニケーション能力を第1に掲げる先生がほとんどでした。
また、ある高校の先生から伺った話ですが、その先生は高校での授業で、先生が講義をする形の授業をやめて、授業の最初に課題のみ提示し、生徒は各自のタブレットから学校のライブラリーにアクセスし課題を調べるという形の授業にしました。そうしたところ、課題を終えた生徒と、課題を終えられていない生徒の間で教え合いが生じていき、最後にはすべての生徒が課題を修了したといいます。この時、すぐに課題を終わらせることが出来た生徒よりも、なかなか課題を修了させることのできなかった生徒のほうが教えるのが上手いということも分かりました。また、クラスとしては全体の理解度が上がったということです。そして、卒業時までにクラスの生徒同士の繋がりが深く強くなっていたということでした。ただ、学生の中で先生の評価はすごく下がったとのことでしたが・・・。
いままでの教師と生徒という関係での知識の伝達よりも、生徒間で一つの課題に向けて「教え合う」という、「協働」があったことで、「全員が課題を理解する」というクラス全体の問題がスムーズに達成でき、それぞれのコミュニケーション能力も上がったという事例です。
また、当園には自然の地形を利用した斜面があります。垂直に切り立っていた場所を、建設業を営む知人から重機を借り受けて、斜面を作ろうと四苦八苦していたのを見かねて、重機を貸してくれた知人が手を貸してくれて相談しながら完成したものです。晴れの日ならば、「頑張れば登れるというくらいのデコボコした斜面」を作ったつもりです。業者さんにこのような作業を依頼しようとすると、「地山45度とか盛土30度」とかで平らな斜面を作ろうとします。「頑張れば登れるくらいの・・・」と説明しても、「それは何度ですか?」と数字を求められます。私としては、あくまでも怪我をしない範囲で「頑張れば登れる」ということで、緩急あったり、コース取りで簡単だったり難しかったり、天候で出来たりできなかったりと、均一でない自然に近い地形の中で、このような斜面を作りたかったので、数字には表せないものなのですが、最初に頼んだ業者さんにはどうしても意思が伝わらずあきらめ、自分で重機を借りて始めてしまったのでした。
ここで遊ぶ子どもたちを見ていると、やはり登れた子が登れない子にアドバイスをしながら登れない子に手助けをしようとします。「教えてあげて!」と保育者が指示をするわけではなく、子どもたちは自然に教え合いをしています。自然の環境の中で遊ぶということは、体感を鍛え、身体能力を上げることにとどまらず、優しさや思いやりや助け合いの心も自然に育まれるということがわかります。
これらの事例からも、自ら考え他人と協力して一つの目標を遂げるということが、素晴らしい結果を生み、且つ個々の能力の底上げをするということが分かると思います。そして、日々幼稚園の砂場で行われていることとも、基本的な事に変わりがないということも。そうであるならば、英語や算数、漢字などという知識の伝達を行う時間があるならば、自由に遊んでいたほうが、幼児期の発達に即した貴重な学びを得る機会が多いのではないかと考えています。特に、当園には自然環境も残されており、自然環境の中での遊びの経験がもたらすメリットは、当園を卒園して成長した大人たちが、再会した私に対して、「山で遊べるのか?」「山粘土はとれるのか?」と目を輝かせながら聞いてくることでも、彼らの中に山で遊んだことが、素晴らしい記憶として脳裏に刻まれていることを感じます。
また、数学者である秋山仁先生の講演を拝聴した折に、先生は「教育とは世のため人のためになること」「中学校までの教育の中心は興味を持たせること」とおっしゃいました。教育基本法には第一条に教育の目的として、
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
としています。これが秋山先生のおっしゃる「世のため人のため」です。私たちは様々な社会に所属しながら生活をしています。国民とか市民とか、社員であったり会員であったり、学校であったり、家族であったり。大きい社会も小さい社会も様々な社会に所属し、その社会の中で多かれ少なかれ、それぞれの立場においてそれぞれの役目を務めています。この時に主体的・協働的な考え方をもってコミュニケーションしていくことが、その社会を円滑に運営していく方法ではないかと思うのです。そして自ら進んで役割を務めていこうとする主体的な考え方は、最終的には「楽しさ」として自分に返ってくると思います。PTAなどの役員決めで、指名されないように下を向いていたのにくじ引きで引き当ててしまった罰ゲームのような役員よりも、自分にできることならお手伝いしますと積極的に役員になったほうが、100倍楽しいですよね。罰ゲーム役員ばかりで構成された委員会は、本当につらいです。単P会長をした折につくづく実感しました。主体的・協働的な考え方というのは、社会を構成する一員に必要な要素であるとともに、自分も他人も幸せにする手段の一つなのではないでしょうか?
また、「興味を持つ」ということは、ロバート・フルガムのいう「不思議だなと思う気持ちを大切にすること」に通じるのではないかと思います。興味を持つことにより、そのことに対する知識を得ようとします。要するに主体的に知識を得ようとするという考え方に頭がなります。したがって仕方なく覚えようとするよりもスムーズに知識を取り入れることが出来、なおかつ長く知識が定着するということになります。「好きこそものの上手なり」です。私は数学の方程式も、英語の構文も、歴史の出来事もほとんどすべて忘れてしまいましたが、好きなことや楽しかったことは覚えています。忘れてしまったことは、忘れたままですが私は日常生活でほとんど困っていません。そのころ好きだったことや楽しかった記憶は、今の自分に寄り添ってくれていて、時には癒しを、時には励まし、時には奮い立たせてくれます。学校教育の中での知識の伝達は、さまざまな分野での興味を引き出し、知識の広がりによってより豊かな人間形成を促すという意味で必要であるとともに、分からないことを知ろうとする、知識の得方の訓練をするうえで必要なプロセスであると感じています。もちろん、大学や専門学校で職業に就く上での専門知識を学ぶということも必要ですね。しかし実際の現場では学んだこと以上に様々なことが起こり、様々な人たちと様々な人たちに様々な事案に対応していかなければならず、常に考え臨機応変に対応しつつ、それぞれの事案に対しての対処方法を学んでいかなければなりません。学校で学んだことをベースに、学校を卒業してからどう学んでいくか?が大切なのではないかと思うのです。
そしてもう一つ人生で本当に重要なのは、そのプロセスを共に過ごす仲間の存在なのではないかと思い始めています。特に幼少期を共に過ごした仲間は、忖度も損得もありません。良いことも悪いことも受け入れて一緒に遊んでいます。ある小学校の児童支援専任の先生がこんな事を話してくれました。
「ある子が悩み荒れている時に、その子にずっと寄り添ってくれている子たちがいたのですが、その子たちになぜ荒れるあの子に寄り添えるのかと聞いたら、一言、“あいつとは幼稚園から一緒だから”でした。幼稚園時代がいかに大切かわかりました。」と。
私自身の心が沈み切っている時に寄り添ってくれたのは、友人の中でも幼少期からの友人に多いのです。だいたい落ち込んでいると離れていく人が多いですよね。本当の友人と呼べる人は少ないんだと実感しています。でも、私には本当の友人は少数で十分。その少数の友人たちのおかげで今を生きていくことが出来ていますから。
キリがないので、このあたりにしますが、私は幼稚園では「あそび」を最大限に行うことが最大の使命であると思っています。当園はお寺の幼稚園であり、私は天台宗の僧侶でもありますから、あそびの中から、優しさや思いやりを育んでほしいと思っています。先ほどの斜面のぼりの件からも、優しさや思いやりもしっかりと育まれているように思います。ここ数年行事も徐々に減らしてきました。それは自由にあそぶ時間を多くしたいからです。行事を減らしたことは、人手不足や単に幼稚園が楽をしたいからだとご意見をいただくこともありましたが、純粋にあそぶ時間を増やしたいから行事を減らしたのです。
同様に、早期教育に取り組まないのは、そんな時間があったら泥んこになっておいで!と言いたいのです。
今回は当園の保育について、なぜあそびなのかについて“すこしだけ”お話いたしました。幼稚園を選ぶ際に一番大切にされることは、ご家庭によって様々であると思いますが、私たちは以上のように考えています。園選びのご参考にしていただければ幸いです。